私達の"三次元"はどこかの誰かとって"二次元"かもしれないし、私達にとっての"二次元"も"三次元"として存在するかもしれない

(本記事はPS4ソフト「Detroit: Become Human」のネタバレを含みます。)

 


Detroit: Become Human(以下デトロイト)、いつかやろういつかやろうと思いつつも発売から2年経ち、PSストアでセール価格になっていたのを期に購入しプレイしたのが数ヶ月前…

1周目のプレイではそれぞれの物語がとてもハッピーエンドとは言えない結末を迎え、私は数日間落ち込んだのちにそれはもう慎重に慎重に2周目をプレイし、無事に3人と世界をハッピーエンドに導くことができたのであった。


ところで、デトロイトには「rA9」という文字列が頻出する。
rA9はゲームの各所に散りばめられつつもそれの正体についてはっきりと言及されることはない。
…が、ゲーム外、デトロイトのオンラインマニュアルにはある仕掛けが施されており、それを解くとrA9の正体が垣間見える(!)という。

その仕掛けについては割愛するが、垣間見えたrA9の正体、それはある種の"コンピュータウイルス"だったのではないかと私は思う。

そしてその"コンピュータウイルス"は他でもない、プレイヤーである私達自身であったのだ。


デトロイトはマルチエンディングのゲームであり、プレイヤーの行動によってゲームの展開が変化していく。
プレイアブルキャラクターにrA9である"プレイヤーの意思"が介入することで、本作の主人公達は変異体となっていくのである(ならない場合もあるが)。

 

ここからは野暮、メタ的な視点を含む話になるが、デトロイトのプレイアブルキャラクター達は、"プレイヤーの意思"に動かされているにも関わらず、それがさも自分自身の意思であるかのように振る舞う。

これはデトロイトに限った話ではない。
この世に存在するゲーム、ひいては全ての創作物はプレイヤーの行動及び製作者のシナリオによって物語が進んでいくのに、登場人物は自分自身の意思で行動していることを信じて疑わない。
(登場人物がプレイヤーやシナリオを認識する作品も存在するが、それすらもシナリオである。)


その一方で、私はこのような考えも抱いている。
"製作者を介してこちら側に届けられる物語は、向こう側に確かに存在するのではないか"。


漫画やアニメ、ゲームは言わずもがなそのほとんどがフィクションであり、その物語や登場人物は実在しないが、それはあくまでも(いわゆる三次元の)私達が干渉できないだけであって、彼らは向こう側(いわゆる二次元)に実在すると考えることもできるのではないだろうか。

私のこの考えは、中学生の時にプレイしたフリーゲームボーカロイドシンフォニー」による影響が大きい。

ボーカロイドシンフォニー」では、こちら側、いわゆる三次元に存在していた主人公がひょんなことから初音ミクらのいる向こう側…二次元に行ってしまうのだが、そこでの主人公は初音ミクが「アニメで見ていた人」なのだ。

私達の"三次元"がどこかの誰かとっては"二次元"かもしれない!それは中学生の私に大きな衝撃を与えることとなった。
(ちなみに私はボーカロイドシンフォニーのダウンロードに失敗しており、どの選択肢を選んでもBADENDになってしまうバグが発生していた)

好きな作品の登場人物を単なるキャラクターだと捉えたくない、という私の面倒臭いオタク心と一致したこともあり、「私達の"三次元"がどこかの誰かとっては"二次元"かもしれない、私達にとっての"二次元"も"三次元"として存在するかもしれない」という考えを今日まで持つに至る。

 

「登場人物はシナリオに動かされている」と「登場人物やその世界は向こう側に確かに存在する」、2つの相反する考えを持つ私であるが、どうせフィクションじゃん、と思いながら見る物語よりも"向こう側の現実"に思いを馳せながら見る物語の方が素敵ではないだろうか。
もちろん、シナリオの構造をメタ的な視点から考察するような楽しみ方もたまにはするし、そういう楽しみ方だって面白い。

作品の楽しみ方に正誤も優劣もない、ないと思うし、そうあってほしいものだ。