「"メッセージボトル的"なインターネットをしたい」「恋愛に造形が深くなさすぎて『実は誰が誰を好きだった』が全て脈絡なく感じる」他

・恋愛に造形が深くなさすぎて「実は誰が誰を好きだった」が全て脈絡なく感じる

漫画やアニメではある程度誇張された表現がなされている場合が多いが、最近はそういう表現がされていても(ものすごく露骨でない限りは)唐突に感じる。
恋愛の挙動に興味がさほどないのか、実際ないのだが、お話の面白さをひとつ取りこぼしている気がしてなんだかなという今日この頃である。


・東京で見かけた「鳩を歩いて誘導する駅員さん」

駅の中に入ってきてしまった鳩を駅員さんが後ろから追いかけて進行方向を調整していた。
猫と警備員さんの攻防戦、だとかカルガモを誘導する警察官、だとかそういう類いのものはSNSでよく目にするが実際にこの目で見たのは初めてだった、こういうことって本当にあるんだ。お仕事お疲れ様です。


・"メッセージボトル的"なインターネットをしたい

現代におけるSNSやブログでは、いいねやフォロワー、インプレッションなどで「自分が発したものがどのくらいの関心を持たれているか」を数字として確認することができる。
これらの数字は単純に己の承認欲求を満たしたり、うまく使えばもっと数字を得るための指標にもなるだろう。

が、私は「私の発したものに誰が何人関心を持っていてどう思ったか」を全く知らずにインターネットを使いたい。
大海原に流したら最後、誰が読むかもわからないメッセージボトルのように。

これは数年前から考えていることだ。

それまで私はごく普通にTwitterを使っていた。しかし、少しずつ、蝕むように数字を気にして発言したりコンテンツを作ったりすることに疲れていき、というよりは疲れていることを自覚したので、「数字を気にしないでTwitterを使おう」と考えを改めた。
無理だった。数字は嫌でも目に入るし、気にしないというのはすぐには難しい。
私はTwitterをやめた。

Twitterはやめたが、自分の考えていることをインターネットに放流したいという欲求は捨てきれず、こうして記事を書いているのである。
(はてなブログ、インプレッション以外の数字はほぼ非表示にできていいです。インプレッションも気を付ければ目に入らない。)

数字に疲れた現代人は少なからずいると思うし、自分に対する数字が全く目に入らないSNS、需要あると思うんだけどなあ。
もしかしたら知らないだけで存在するのだろうか。

 

話は変わるがインターネットを介したコミュニケーション方法でもう1つ。

Steamでパケ買いした「Journey」(邦題:風ノ旅ビト)というゲーム、これがとても良かった。 steamストア:Journey

砂漠や海底などの遺跡を探索するアドベンチャーゲームなのだが、フィールドを歩いていると自分の他にもうひとり、自分とは別のプレイヤーが同じフィールドに存在する。
この別のプレイヤーとは協力するもよし、別々に進むもよしと、何かを強制されることはない。

特筆すべきがこのゲームで取れるコミュニケーションの方法である。

このゲームの操作は「移動」「ジャンプ」「音と光をポワーンと出す」の3つのみであり、チャットやエモートでのコミュニケーションは望めず、繋がった相手が誰であったかも分からない。
それが私にはとても気楽で、心地よいものであったのだ。

誰かも分からない相手と協力して一緒に進む、あの不思議な温かい感覚は唯一無二であると思うし、とても楽しい。
楽しいのだが、ただでさえゲームが下手くそであるのに、私の環境だと画面がカクカクでプレイに若干支障を来しており、足手まといになってしまう場面が多かったのでオフラインにもできるとありがたいかなあ。オンラインのあの感じが醍醐味なのは重々承知しつつも。