・死は救済か、脅威か
主人公と仲間たちがみな死んで、ヒロインだけ生き残って終わるアニメを弟と観た。
「より”エグい”終わりになる案もあった」という話があるらしく、ヒロインも含めみな死ぬエンディングが考えられていたのではないか、と弟が語った。
「ヒロインも含めてみんな死ぬのは全員同じ場所に行けるからある種のハッピーエンドだ」と私が言うと、弟はサイコパスだと笑った。死者を主体とした発言ではなく、残ったヒロインの苦しみを考えての発言だった。
次の日ふと、鬱や希死念慮が常態化した人間は死が救いに見え(最悪死ねば良い)、そうでない人間は死を避けるべき脅威だと捉える(最悪でも死ぬわけではない)という傾向があるという説を思い出した。私は前者である。
生き残った苦しみに焦点を当てるか、死ぬ苦しみに焦点を当てるかの違いもある。サイコパスなのではなく、そこの価値観の差から出た発言であったのだと思う。
・2度死ぬ
15歳ではじめて向精神薬を飲んだとき、薬が強烈に効いていく感覚があり、薬を飲む前の自分は死んだんだ、と感じた。
1年前に経験した強い抑うつでは自分が壊れた感覚があって、それ以前の自分も死んだ感じがする。
精神科には一生通院しなければいけない、薬も一生飲まなければいけない。
この先どれだけ人生が好転してもそれは変わらないし、死んだ自分は戻ってこない、そういう静かな絶望がある。
・失ったものと戻るもの
2025年の記事を読み返すと、自分がかなりまいっておかしくなっていることがわかる。
読むに耐えない。
当時、瞑想のかわりに書いていた詩のなかには気に入っているものもいくつかある。あれは当時の追い詰められた状態でこそ出る表現で、回復してきた今は同じものは書けない。鬱に酔って書いた詩は独特の味がある。
2025年は失ったものが多かった。母が介護のため一時的に別居状態になり、家に残る3人分の家事は私が担うことになった。精神疾患で元々余裕なく生きてきた私は家事負担に潰されてバイトを辞め、フリーランスのイラスト仕事も半ばで投げ出し、学校も休学した。
かなり疲弊した私を適当に診察し、間違った診断と投薬で悪化させた病院から転院できたのは良かった。正しい診断と投薬治療を受けられて、病状は少しずつ回復している。
フリーランスの仕事を投げ出してしまったことは痛かった。迷惑をかけたことや完遂できなかったことのすべてがトラウマとなり、生き甲斐だった絵が描けなくなってしまった。
主治医は「病気なのだから仕方ない、と考えては」と言っていたが、そう頭で考えても心臓は冷たく苦しくなる。
最近、小説が読めるようになってきた。まだ目は滑るが、時間をかければ内容が頭に入ってくる。
2年前に買ったエッセイ本をついこの間読み終えたときは、達成感ですこし涙ぐんだ。HUNTER×HUNTERの王位継承編もなんとか読むことができた。文字が多く、読み心地が小説だった。
映画も観られるようになった。長編ゲームであるペルソナ5もクリアできた。
集中力が戻ってきている。