【2023ゲーム振り返り記】「"これは私だけの冒険だ"とひとりで大事に抱え込まずにはいられない」他

前回の記事を読み返したら、最後に「これからキタカミの里に行ってきます」と書いてあった。
何も知らない頃の私だ。

ポケモンSVDLC後半、ストーリーをクリアし、図鑑も埋められるところはほぼ埋まり、あとはやりこみ要素をぼちぼちやろうかな、のところまで来た。
まだ配信から間もないので、碧の円盤の感想は割愛させて頂く。

スグリくん、願わくば夜、君が安心して眠れますように。

 


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年末。
nintendoやPlayStationから「2023年にあなたが遊んだゲームを振り返ってみましょう!」の通知が来ることに、何よりも1年の終わりを感じる。

ということで、私が2023年に遊んだゲームの振り返りと、それに伴う脱線した話を書きます。

 

もくじ

・nintendo Switch 

  ─ポケモンSV、ポケモン剣盾
  ─ファイアーエムブレム風花雪月

・Playstation

  ─エルデンリング

 


nintendo Switch


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・ポケモンSV、ポケモン剣盾

去年のSV発売から、とにかくポケモンにどっぷりだった。ゲームをやり、アニメを見て、ポケセンに行き、プロントに通った。

プロントのポケモンコラボ、すごかったな。
コラボごはん系、イメージドリンクとかも楽しくて好きだけど、作中飯再現が一番嬉しい。あの子達と同じものが食べたい。

作中に出てくるサンドイッチが公式で再現されて、それを現実で食べられることがとても嬉しくて、コラボ初日のお昼にプロントに駆け込んだ。

緑のソースおいしいな、これなんだろうと思って調べたら、苦手意識のあるアボカドで、自分がアボカドをおいしく食べられることに驚いたりもした。ポケモンは私の世界を広げてくれる。いいなあ。

私は3ヶ月のうち3店舗ほど回ったのだが、そのうちの1店舗では店内の大きなモニターでSVDLCのPV、名探偵ピカチュウのPV、そして「Pokemon 1008 ENCOUNTERS」が流されており、ポケモンのご飯を食べながらポケモンの映像を見られることが嬉しすぎて、なんというか本当に幸せだった。きっとあれが幸せというものなんだろう。

Pokemon 1008 ENCOUNTERS

https://youtu.be/qYJwN4cvde0?si=VE3yF72GuhfgttjF

私はあの日プロントでポケモンのご飯を食べながらポケモンの映像を見ていたけれど、隣のお客さんはモニターを一瞥もせず普通のパスタを食べたりしていて、それが不思議でもあった。
私にとってはポケモンの空間でも、あそこにいる大多数の人にとってはただ単にプロントというカフェであったのだ。あの空間は、なんだか全てを許容してくれている気がして、それがとても居心地がよかった。

 

かなり長々とプロントの話をしてしまった。ここからはポケモン本編の話を。

クリア直後なのでどうしても碧の円盤を終えて───になってしまうが、SV及びDLCゼロの秘宝、かなり色々な出来事が主人公を鍵として動いているな、と感じた。

主人公の存在によって物語が、人物が、世界が、動く。
RPGの"主人公"、すなわちプレイヤー(の写し身)が、ポケモンというタイトルの性質上、誰が相手でも最終的にはバトルに勝つし、チャンピオンになるし、珍しいポケモンも捕まえる。

主人公が勝って、チャンピオンになって、伝説のポケモンを捕まえたとき、その目の前には主人公に負けて、チャンピオンになれなくて、珍しいポケモンを捕まえられなかった人間がいるんだ、と、頭を掴まれて直視させられる。


剣盾でも、「勝った人間がいるならそこには負けた人間もいる」はかなり描写されていた。

ただ、SVほど主人公の存在が物語を動かす鍵になってはいなかった。主人公やホップくんが研鑽を重ねるその裏で、ローズ委員長やダンデさん、ソニアさんが何か大きな事態を動かしていた。

主人公がいなくても進む事態とその解決に動く大人達って、幾度となく子供達が世界を救ってきたポケモン世界ではすごく新鮮だった。
結局世界の危機には子供達も巻き込まれたけれど、それでもダンデさんの存在は大きくて、脅威に立ち向かうときに頼もしい大人が後ろにいてくれるっていいなあ、と思う。

子供達だけで脅威に立ち向かう物語も、それはそれとして好きだ。好きだけど、自分が大人になってしまったからか何なのか、最近は頼れる大人がいてくれたほうがいいな、と思う気持ちが強い。私は何かに寄りかかりたいのかもしれない。


ダンデさん、チャンピオンダンデという存在、本当に大きすぎて、私がチャンピオンになることでチャンピオンダンデがチャンピオンダンデでなくなるのが嫌だった。チャンピオンダンデが大好きなのに。

チャンピオンダンデに勝った瞬間は勝利の高揚もあったけれど、やっぱり喪失感もあって、チャンピオンの座に相応しいのはダンデさんしかいないんだと強く思う自分がいて、素直に喜ぶことはできなかった。

でも、ダンデさんはチャンピオンじゃなくなってもその輝きを失うことはなくて、いつだってガラルのみんなを盛り上げて引っ張ってくれる。それはすごく嬉しいことだ。

チャンピオンであることだけが、チャンピオンダンデをチャンピオンダンデたらしめていたわけではなかったのだ。

 

 


・ファイアーエムブレム風花雪月

ゲーム実況動画はよく見るが、基本的には過去に自分がやったゲームか、もしくはこの先やらないだろうなというゲーム、それかパズル系やサバイバル系などのネタバレのないゲームしか見ないようにしている。
風花雪月の動画はいつかやるかもな~と思って見ていなかった。

翠風、紅花、銀雪、蒼月、一通りプレイし終えて、そうだ実況を見ようと思ったけれど、EDで自分と結婚した子が他の子と(もしくは他のプレイヤーと、も)結婚するところを見ることに耐えられなくて、結局最後まで見なかった。

ポケモンにしろ風花雪月にしろ、何百何千万本と流通しているタイトルなのだから、何百何千万人が私と同じゲームをプレイして、同じ仲間達と冒険したのは分かっているが、どうしても「これは私だけの冒険だ」と思わずにはいられない。
ゲームや登場人物への思い入れが強いほど、それは強まる。

もちろん自分と全く同じゲーム体験をした人間はいないだろうし、冒険の細部や抱いた感情は他人のものとはすり替えられないものだが、そういうことではなくて、この冒険をしてこの仲間達に出会ったのは世界で自分ひとりだけなのだと思う自分がいる。そうでないことは理性で分かっているのに。

主観に重きを置くという点では、独我論に通ずるところはあるかもしれない。
自我の意識が強すぎるし、感情は他人と共有せずにひとりで抱え込み、消化し切りたい。


ネモちゃんのライバルは私だし、スグリくんの友達は私だし、金鹿学級の先生は私だし、リンハルトの伴侶は私なのだ。他の誰でもないじゃないか。
頭の冷静な部分は「お前だけのものではない」と囁くけれど、どうしてもひとりで大事に抱え込まずにはいられない。

 

 

PlayStation


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・エルデンリング

フロムゲーはBloodborneを少しだけやったことがあり、わーむずかしいしこわいしむりだと思ってやめてそれっきりだったが、フロムのオタクの弟にまんまと乗せられてエルデンリングをプレイしたところ、面白くてエンディングまでプレイしてしまった。

ただ進めるだけでは世界観や設定があまり説明されないが、弟が解説してくれるし、フレーバーテキストを読むのも楽しい。
弟と同じゲームの話ができるのが久しぶりで嬉しかったのもあるだろうな。

何度も挑んでチクチク刺して、やっと倒せた達成感も好きだし、どかんと一発ぶちかまして勝つのも楽しい。
負けて負けて試行錯誤してそれでも負けて、工夫して動きを覚えてやっとマレニアを倒せたときは嬉しかった。徐々にどうすればいいのかが見えてくるあの感覚は忘れがたい。

1周目は信仰を上げ、祈祷をメインに使った。2周目は魔術を使っているが、今でも祈祷にはかなり愛着がある。
朱きエオニアとフォルサクスの雷槍が好きだ。隙も大きいが攻撃判定が複数あって、うまくヒットするとめちゃくちゃ気持ちいい。

あと、人が死にすぎる。びっくりするくらい死ぬ。


これでゲームの話は終わりです。


今年は趣味の時間のうち、ゲームに割く時間が多かったように思う。
すなわち、創作活動に割く時間が減ったということなのですが…。

ここ1年は長い長いモラトリアムからようやく少しだけ抜けはじめ、"社会"に直面して辟易することも多かったので、ゲームの時間は本当にオアシスだった。ゲームに生かされていると言っても過言ではない。

ゲームをする時間は、息抜きとか趣味を越えて、心の拠り所となっている。
とはいえ、創作活動も自分にとって大事なものなので、この先はもう少し前向きに時間を取れればいいなと思う。


ゲームに生かされた1年でした。ゲームありがとう。
この世にゲームがあって良かった。