「眼鏡キャラというよりは"眼鏡をかけるようなタイプの人間の精神性"が好き」「ゲーム内コーデを見てくれ!!」他

ポケモンSVのDLC追加エピソード配信日、もうすぐだ。楽しみ。

ポケモンというコンテンツ、常に何かが動いていて、最高。
人生の給水所としてめちゃくちゃ細かく設置されている。私はポケモンに生かされている。


もくじ
・眼鏡萌え
・人生は一度きりだと思っていない
・コーデを見てくれ
・PS5を手に入れてプレイするタイトルは…

 

 

・眼鏡萌え

私は眼鏡をかけているキャラクターが好きなのだが、眼鏡そのものというよりは"眼鏡をかけるようなタイプの人間の精神性"が好きだ(現実においてはその限りではない)。もちろん眼鏡そのものも好きですが。

真面目、堅物、優秀、おっとり、優しい、とか、「眼鏡はダサい」の風潮を気にせずに(もしくは知らずに)眼鏡をかけている人達。
だて眼鏡はだて眼鏡で、眼鏡をおしゃれとして扱っているところが良い。眼鏡の子が垢抜けた描写として眼鏡を外していると悲しい。

でも、眼鏡を外すと実は美少女!イケメン!という展開も結構好きだ。
「眼鏡を外す回」として眼鏡を外すのはいいけれど、次話からはまた普通に眼鏡をかけていてほしい。

たまに眼鏡キャラとしてサングラスの人が挙げられていることがあるけど、サングラスは個人的にはちょっと違う気がする。

 

・人生は一度きりだと思っていない

私は永劫回帰※や輪廻転生をわりと真に受けており、というよりは死後の行く末として挙げられる「天国・地獄」「全くの無」などは、死後が未知数である以上は全て等しく可能性があると思うし、"人生は一度きり!"というフレーズは、死後が「全くの無(もしくは天国・地獄など)」であることを前提としていて、人生が繰り返される可能性を無視した言葉だな、と感じる。

永劫回帰とは、この世界は、全てのもの(大いなるものも卑小なものも)が、まったく同じように永遠にくり返されるとする考え方である。(wikipediaより引用)

もっとも、人生は一度きり、だから楽しもう、頑張ろう、のように鼓舞の枕詞として使われているだけで、死後の世界観など特に考慮せず使われているのだろうが。

死後の行く末には等しく可能性がある、と前述したが、自分としてはなんとなく人生って何回もあるっぽいな、と感じており、自分はいままで人生を何回も経験しているか、もしくはこの先も人生を繰り返すんじゃないか、と思う。

そのせいでゲームの縛りプレイよろしく「今回の人生はこれでいくか」と奇行に走ることもあるし、人生がいかに苦しくとも死というものに苦難からの脱却を望めないのであれば、生きてなんとかするしかないか…と渋々立ち上がれることもある。

死の先に何があるか(もしくは何かがあるのか)って、いつか解明されるのだろうか。
解明できるとしたら、どうやってするのだろう。

 

・コーデを見てくれ

コーデを見せます。

 

・ポケモン剣盾

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このコーデはかなり気に入っている。ダークかわいい。
スニーカーではなくスポーツシューズを履いて、大きめスニーカー風に見せているのがポイント。

モノクロチェックのかばん、四角めのシルエットとウールーっぽいカラーリングがお気に入りで、旅の序盤にエンジンシティで入手してからずっと愛用しています。


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こっちはインテレオンイメージ。

 

・ポケモンSV

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ツインテールと眼鏡でかわいく組めないか試行錯誤したときのコーデ。
SV、かわいさを求めると夏服になりがちだ。

普段は髪色デニムカラーにミディアムパーマ、ニューせいふく(はる)を着ています。もしくはじんべえ姿でキタカミを徘徊。


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「いつものショート」もボーイッシュにかわいく決まるので好き。

 

・ポケモンXY

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差し色の赤いサングラスで主人公感を主張しているつもりです。
他の人はどんなコーデしてるんだろうとネット検索してみたら、ほぼ同じ格好の人がいて考えることは同じなんだと思った。ちょっと笑った。
紺のコートに茶色のロングブーツ、鉄板かわいい。

 

・ドラゴンズドグマ

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基本は虚無装備+aで状態異常耐性ほぼ100%の格好をしているが、たまに性能度外視の使用人の服で散歩したりもする。かわいいし。
メイド服で戦うのはかっこいいんだ…。

 

・エルデンリング
見せびらかしたいほどのコーデが組めていないので、画像は割愛。後ろに垂らした長いみつあみを出したいのに、エルデンリングの頭装備は頭が隠れるものばかりなので…。
マレニアの軽装鎧が好きだ。美しさと鎧感のバランスがとてもよい。

 

・PS5を手に入れてプレイするタイトルは…

スカイリム。

PS5、買いました。ドラゴンズドグマ2、待ってる。
PS4でやるつもりで買ったスカイリムAEがPS5にも対応していたので、久しぶりにプレイしている。いつやっても面白いな。
バニラのスカイリムは初だけど、ないと絶対無理だと思っていたSkyUIがなくてもわりと平気だった。SkyUIの使い心地をいい感じに忘れられている。

 


以上です。

冒頭でも書いたが、本当にポケモンに生かされている。最近は特に。
ポケモンに生かされすぎていて、現実にポケモンが存在しないことがたまにどうしようもなく悲しくなる。カミッチュと暮らしたい。ラウドボーンの背中を撫でたい。

でもどれだけ悲しもうが目の前にポケモンはいないのだから、この人生を歩んでいくしかないのだ。

ポケモンたち、いつか会いたいな。今はこの人生をもう少し頑張ります。

【2023ゲーム振り返り記】「"これは私だけの冒険だ"とひとりで大事に抱え込まずにはいられない」他

前回の記事を読み返したら、最後に「これからキタカミの里に行ってきます」と書いてあった。
何も知らない頃の私だ。

ポケモンSVDLC後半、ストーリーをクリアし、図鑑も埋められるところはほぼ埋まり、あとはやりこみ要素をぼちぼちやろうかな、のところまで来た。
まだ配信から間もないので、碧の円盤の感想は割愛させて頂く。

スグリくん、願わくば夜、君が安心して眠れますように。

 


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年末。
nintendoやPlayStationから「2023年にあなたが遊んだゲームを振り返ってみましょう!」の通知が来ることに、何よりも1年の終わりを感じる。

ということで、私が2023年に遊んだゲームの振り返りと、それに伴う脱線した話を書きます。

 

もくじ

・nintendo Switch 

  ─ポケモンSV、ポケモン剣盾
  ─ファイアーエムブレム風花雪月

・Playstation

  ─エルデンリング

 


nintendo Switch


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・ポケモンSV、ポケモン剣盾

去年のSV発売から、とにかくポケモンにどっぷりだった。ゲームをやり、アニメを見て、ポケセンに行き、プロントに通った。

プロントのポケモンコラボ、すごかったな。
コラボごはん系、イメージドリンクとかも楽しくて好きだけど、作中飯再現が一番嬉しい。あの子達と同じものが食べたい。

作中に出てくるサンドイッチが公式で再現されて、それを現実で食べられることがとても嬉しくて、コラボ初日のお昼にプロントに駆け込んだ。

緑のソースおいしいな、これなんだろうと思って調べたら、苦手意識のあるアボカドで、自分がアボカドをおいしく食べられることに驚いたりもした。ポケモンは私の世界を広げてくれる。いいなあ。

私は3ヶ月のうち3店舗ほど回ったのだが、そのうちの1店舗では店内の大きなモニターでSVDLCのPV、名探偵ピカチュウのPV、そして「Pokemon 1008 ENCOUNTERS」が流されており、ポケモンのご飯を食べながらポケモンの映像を見られることが嬉しすぎて、なんというか本当に幸せだった。きっとあれが幸せというものなんだろう。

Pokemon 1008 ENCOUNTERS

https://youtu.be/qYJwN4cvde0?si=VE3yF72GuhfgttjF

私はあの日プロントでポケモンのご飯を食べながらポケモンの映像を見ていたけれど、隣のお客さんはモニターを一瞥もせず普通のパスタを食べたりしていて、それが不思議でもあった。
私にとってはポケモンの空間でも、あそこにいる大多数の人にとってはただ単にプロントというカフェであったのだ。あの空間は、なんだか全てを許容してくれている気がして、それがとても居心地がよかった。

 

かなり長々とプロントの話をしてしまった。ここからはポケモン本編の話を。

クリア直後なのでどうしても碧の円盤を終えて───になってしまうが、SV及びDLCゼロの秘宝、かなり色々な出来事が主人公を鍵として動いているな、と感じた。

主人公の存在によって物語が、人物が、世界が、動く。
RPGの"主人公"、すなわちプレイヤー(の写し身)が、ポケモンというタイトルの性質上、誰が相手でも最終的にはバトルに勝つし、チャンピオンになるし、珍しいポケモンも捕まえる。

主人公が勝って、チャンピオンになって、伝説のポケモンを捕まえたとき、その目の前には主人公に負けて、チャンピオンになれなくて、珍しいポケモンを捕まえられなかった人間がいるんだ、と、頭を掴まれて直視させられる。


剣盾でも、「勝った人間がいるならそこには負けた人間もいる」はかなり描写されていた。

ただ、SVほど主人公の存在が物語を動かす鍵になってはいなかった。主人公やホップくんが研鑽を重ねるその裏で、ローズ委員長やダンデさん、ソニアさんが何か大きな事態を動かしていた。

主人公がいなくても進む事態とその解決に動く大人達って、幾度となく子供達が世界を救ってきたポケモン世界ではすごく新鮮だった。
結局世界の危機には子供達も巻き込まれたけれど、それでもダンデさんの存在は大きくて、脅威に立ち向かうときに頼もしい大人が後ろにいてくれるっていいなあ、と思う。

子供達だけで脅威に立ち向かう物語も、それはそれとして好きだ。好きだけど、自分が大人になってしまったからか何なのか、最近は頼れる大人がいてくれたほうがいいな、と思う気持ちが強い。私は何かに寄りかかりたいのかもしれない。


ダンデさん、チャンピオンダンデという存在、本当に大きすぎて、私がチャンピオンになることでチャンピオンダンデがチャンピオンダンデでなくなるのが嫌だった。チャンピオンダンデが大好きなのに。

チャンピオンダンデに勝った瞬間は勝利の高揚もあったけれど、やっぱり喪失感もあって、チャンピオンの座に相応しいのはダンデさんしかいないんだと強く思う自分がいて、素直に喜ぶことはできなかった。

でも、ダンデさんはチャンピオンじゃなくなってもその輝きを失うことはなくて、いつだってガラルのみんなを盛り上げて引っ張ってくれる。それはすごく嬉しいことだ。

チャンピオンであることだけが、チャンピオンダンデをチャンピオンダンデたらしめていたわけではなかったのだ。

 

 


・ファイアーエムブレム風花雪月

ゲーム実況動画はよく見るが、基本的には過去に自分がやったゲームか、もしくはこの先やらないだろうなというゲーム、それかパズル系やサバイバル系などのネタバレのないゲームしか見ないようにしている。
風花雪月の動画はいつかやるかもな~と思って見ていなかった。

翠風、紅花、銀雪、蒼月、一通りプレイし終えて、そうだ実況を見ようと思ったけれど、EDで自分と結婚した子が他の子と(もしくは他のプレイヤーと、も)結婚するところを見ることに耐えられなくて、結局最後まで見なかった。

ポケモンにしろ風花雪月にしろ、何百何千万本と流通しているタイトルなのだから、何百何千万人が私と同じゲームをプレイして、同じ仲間達と冒険したのは分かっているが、どうしても「これは私だけの冒険だ」と思わずにはいられない。
ゲームや登場人物への思い入れが強いほど、それは強まる。

もちろん自分と全く同じゲーム体験をした人間はいないだろうし、冒険の細部や抱いた感情は他人のものとはすり替えられないものだが、そういうことではなくて、この冒険をしてこの仲間達に出会ったのは世界で自分ひとりだけなのだと思う自分がいる。そうでないことは理性で分かっているのに。

主観に重きを置くという点では、独我論に通ずるところはあるかもしれない。
自我の意識が強すぎるし、感情は他人と共有せずにひとりで抱え込み、消化し切りたい。


ネモちゃんのライバルは私だし、スグリくんの友達は私だし、金鹿学級の先生は私だし、リンハルトの伴侶は私なのだ。他の誰でもないじゃないか。
頭の冷静な部分は「お前だけのものではない」と囁くけれど、どうしてもひとりで大事に抱え込まずにはいられない。

 

 

PlayStation


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・エルデンリング

フロムゲーはBloodborneを少しだけやったことがあり、わーむずかしいしこわいしむりだと思ってやめてそれっきりだったが、フロムのオタクの弟にまんまと乗せられてエルデンリングをプレイしたところ、面白くてエンディングまでプレイしてしまった。

ただ進めるだけでは世界観や設定があまり説明されないが、弟が解説してくれるし、フレーバーテキストを読むのも楽しい。
弟と同じゲームの話ができるのが久しぶりで嬉しかったのもあるだろうな。

何度も挑んでチクチク刺して、やっと倒せた達成感も好きだし、どかんと一発ぶちかまして勝つのも楽しい。
負けて負けて試行錯誤してそれでも負けて、工夫して動きを覚えてやっとマレニアを倒せたときは嬉しかった。徐々にどうすればいいのかが見えてくるあの感覚は忘れがたい。

1周目は信仰を上げ、祈祷をメインに使った。2周目は魔術を使っているが、今でも祈祷にはかなり愛着がある。
朱きエオニアとフォルサクスの雷槍が好きだ。隙も大きいが攻撃判定が複数あって、うまくヒットするとめちゃくちゃ気持ちいい。

あと、人が死にすぎる。びっくりするくらい死ぬ。


これでゲームの話は終わりです。


今年は趣味の時間のうち、ゲームに割く時間が多かったように思う。
すなわち、創作活動に割く時間が減ったということなのですが…。

ここ1年は長い長いモラトリアムからようやく少しだけ抜けはじめ、"社会"に直面して辟易することも多かったので、ゲームの時間は本当にオアシスだった。ゲームに生かされていると言っても過言ではない。

ゲームをする時間は、息抜きとか趣味を越えて、心の拠り所となっている。
とはいえ、創作活動も自分にとって大事なものなので、この先はもう少し前向きに時間を取れればいいなと思う。


ゲームに生かされた1年でした。ゲームありがとう。
この世にゲームがあって良かった。

人はどんな過程を経て『オタク』という生き物になっていくのか、自分の半生から紐解いてみる

・ブログ記事のカテゴリ、もうちょっとなんとかしたい。ゲームはいいとして『生活』『思考』って何?分ける意味も謎だし。
『エッセイ』とかのほうがわかりやすいだろうか。しかしこれをエッセイと称するのは傲慢で気恥ずかしい。『日記』でもないしなあ。


・20代中盤にして、好奇心から初めて髪を染めてみたが、思っていたより特になんの感慨もなかった。家族や知り合いは褒めてくれたが。
私は、「自分が何を思うか」ばかりに重きをおいて、他我に関心がなさすぎるかもしれない。

 

・人はいかにしてオタクへと至るか

自らの人生を左右するほど熱をあげている何か──アニメ、ゲーム、芸能人、あとなんか色々。昨今においては、オタクとは言えない人を探す方が難しい。

今回は、アニメゲーム漫画系、『いわゆるオタク』『2次元のオタク』に、自分がどう至ったか、そのルーツと人がオタク化する傾向について記していきます(その人がどう"その人"になっていったかの話が好きなので)。


・幼稚園の頃から絵を描くのが好きだった。
幼少期の趣味嗜好がどこから影響を受けて形成されるものなのかわからないが、オタクになる要因として「(幼少期の)絵を描くのが好き」はわりと決定的な部類だと感じる。


・小学校中~高学年、同級生がドラマやバラエティを観始める中、いつまでもアニメを観続ける。

特に女子はドラマ・バラエティへの移行が早く、アニメの話ができる女の子は徐々に減っていく。
私は当時からかなりの逆張り人間だったため、周囲に卒アニメの風潮が強まるほどそれに抵抗し、ドラマは絶対に観ないぞと意固地になっていた。が、「GM~踊れドクター」だけは観ていた。

・6年生頃まで一緒にイナズマイレブンを観ており、放課後に毎日遊ぶようなとても仲の良い友人がいたが、その子は中学に上がって一切アニメを観なくなり、話が合わなくなって悲しかった。
単純にアニメの話ができなくなった、というわけではない。
そこには、オタク・オタクでない、の人生の分岐が強くあった。

中学生になっても変わらずアニメの話しかできない私。一方、友人の話題は人間関係の悩みや恋愛、今面白いドラマの話。興味の方向性が180°違ってしまった。

男子とは、6年生になってもポケモンとコロコロコミックと夕方のアニメの話をしていた記憶がある。あの時間には確かな輝きがあった。もう戻れない。

あにゃまる探偵キルミンずぅ、毎週欠かさず観ていたが、クラスに誰も観てる人がいなかった。


・親がオタク
一緒に遊んでくれるというよりは、ひとりでリビングでずっとアニメを観ているような親だった。今もだが。
弟もアニオタ萌え豚というよりは自分と同じくゲームとインターネットが好きなオタクなので、育ちの影響はかなり大きく出ていると思う。


・ハヤテのごとく!
ハヤテのごとく!のTVアニメ第1話をたまたま観てその面白さにどハマりし、幸運なことに漫画の単行本も買い与えてもらえた。親も読むからである。
土日の朝にプリキュアやウルトラマンを観た後の流れで放映されていたハヤテのごとく!は罠だった。あれはオタク英才教育漫画だ。

ハヤテはコメディの面白さもさることながら、とにかく絵がかわいい。
ハヤテ連載期、畑健二郎先生は絵柄の移り変わりが激しかったが、私は特に原作10巻あたりの絵柄が好きだ。三千院ナギ、ずっと完璧にかわいいヒロイン。

 

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↑漫画が乱雑に並べられ、整理がままならないリビングの本棚。


・ゲームを買い与えられるのが周囲より少し遅く、買い与えてもらえた後も時間制限が厳しめだった。

DSを持っていないので遊びの輪に入れてもらえない。これはゲーム購入を渋った親ではなく、そのコミュニティが悪い。
この悪いコミュニティは当時の習い事先の話で、近所や学校の友人は集まってマリオカートをやるときなどに交代でDSを貸してくれていた。ありがとう。

買い与えられた後。
時間制限は1日30分まで←つらい。

子供の頃にゲームを制限されすぎると大人になってゲーム欲が爆発しがち、というのは宇多丸氏のラジオ「マイゲーム・マイライフ」内でも幾度となく触れられてきた話だが、弟と共にまさにそれを体現している。

プレイステーションpresents ライムスター宇多丸とマイゲーム・マイライフ

https://open.spotify.com/show/0nKl3QirVS0YMydJh9ktWf?si=o5oAxkeaRya7wB3fDZheng

ただ、ゲームばかりやると目が悪くなるという親の危惧も今となっては分かるし、制限を設けなければゲームばかりやって他がおろそかになる可能性もそれはあるだろうし、子供のゲームの制限はなかなか落とし所が難しくあると思う。

宿題やお手伝いなどのやるべきことをしっかり終わらせたら就寝時間の夜◯時までは制限なし、とかだろうか。どうでしょうか。


・インターネットに触れ、二次創作を知ってしまう。
これは既にだいぶオタクと化していた頃だったので深くは触れないが、オタクとしてどっぷりいくかいかないかの分岐はやはりインターネットだったのではないか。

 

小学生以降、中学生の頃の部活や友人関係は、自分の場合それに影響を受けてオタクとなったわけではなく、既にオタクとして出来上がっていた自分が自然とオタクコミュニティに吸い寄せられていた。

なのでやはり、自分にとってのオタクの分岐点は「観る番組がドラマやバラエティに変わっていくか、アニメを観続けるか」が出てくる小学生の中~高学年頃だったように思う。

周りと話を合わせるためにドラマやバラエティを観よう、という気がなかった。社会性。

 

オタクのルーツの話は以上です。いつもオチを考えずに記事を書いてしまう。良くない。
みなさんもTwitterとかで自分のオタクのルーツの話をしてみてください。

私は今からキタカミの里に行ってきます。
ではまた、機会があれば。